缶の飲食品を、どこまで気にするか
日本の缶は、法令の規格よりはるかに低いところで運用されています。ポリカーボネート製の器具・容器包装の溶出規格は2.5 ppm以下。これに対し国内で製造される缶詰容器は、業界の自主的な取り組みで飲料缶0.005 ppm以下、食品缶0.01 ppm以下とされ、2008年7月に業界ガイドラインが制定されています1。
規格の1/250から1/500にあたる水準です。
ただし、もう一方ではっきりしていないことがあります。日本には、BPAの耐容一日摂取量(TDI)がありません。2010年に「設定することは困難」とされて以降、評価は再開されていません2。
同じ物質を、13の機関が評価してきた
BPAは、ポリカーボネートと、金属の防錆塗装に使うエポキシ樹脂の原料です2。缶の内面コーティングに使われてきたのは、後者です。
この物質は、1988年から各国の機関が繰り返し評価してきました。内閣府食品安全委員会の令和7年度調査報告書に、その一覧があります2。
| 年 | 機関 | 値(体重1kgあたり1日) |
|---|---|---|
| 1988 | 米国EPA | RfD 0.05 mg=50,000,000 ng |
| 2002 | 欧州委員会(SCF) | TDI 0.01 mg=10,000,000 ng |
| 2006 | EFSA | TDI 0.05 mg=50,000,000 ng |
| 2012 | スウェーデンKEMI | 暫定TDI 25 µg=25,000 ng |
| 2013 | フランスANSES | 0.0025〜0.01 µg=2.5〜10 ng |
| 2015 | EFSA | 暫定TDI 4 µg=4,000 ng |
| 2023 | EFSA | TDI 0.2 ng |
| 2023 | ドイツBfR | TDI 0.2 µg=200 ng |
| 2024 | 英国COT | BfRの評価に同意(0.2 µg) |
| 2025 | 韓国NIFDS | 現行TDI 20 µgを維持 |
| — | 日本 | 設定なし |
並べると、37年で5桁以上動いています。そして直近の2023年、EFSAとBfRが同じ年に出した数字は1,000倍違います。
なぜ1,000倍ずれたのか
ずれたのは、結論ではなくどの実験のどの所見を出発点に置いたかです。
| 採用した所見 | 不確実係数 | |
|---|---|---|
| EFSA 2023 | マウスの出生児で免疫細胞(Th17細胞)が増加したという報告。ヒト等価用量 8.2 ng/kg/日 | 50 |
| BfR 2023 | ラットの反復投与試験での精子数減少。BMDL10 = 26 µg/kg/日 | 確率的不確実性評価 |
見ている影響が違います。免疫細胞の割合の変化を出発点に置けば、はるかに低い用量が問題になる。精子数を出発点に置けば、そうはならない。
そしてEFSAは2015年に、腎臓の相対重量の変化を出発点に4 µgとしていました。同じ機関が、8年で出発点を変えて2万分の1にしています。
これは「エビデンスがある」の中身が問われる典型的な場面です。どちらも評価をした。どちらも根拠の文献がある。それでも1,000倍違う。「専門機関が評価した」は、一つの答えが出たことを意味しません。

日本が「設定困難」とした理由
日本の経緯は、こうです。
2008年(平成20年)、厚生労働省が食品安全委員会にリスク評価を依頼しました。きっかけは、それまで有害とされていた量より低い用量で影響が出たとする報告が相次いだことです。
2010年(平成22年)7月、生殖発生毒性等に関するワーキンググループが「中間とりまとめ」を報告します。結論は、その時点の知見からは耐容一日摂取量を設定することは困難であり、低用量影響に関する新たな科学的知見が得られた時点で最終的な評価をとりまとめるというものでした2。
その後、2021年に米国のCLARITY-BPAプログラム(ラット2年間慢性毒性試験)の最終報告書が公表され、2023年にEFSAとBfR、2024年に英国COTが評価を出しました。これを受けて、日本はリスク評価の再開に向けた基礎資料を集めている段階にあります2。
「まだ決めていない」のであって、「安全だと決めた」でも「危険だと決めた」でもありません。この3つを区別しないと、判断の方向が変わります。
では、いま何が言えるか
数字がそろっている部分と、そろっていない部分を分けます。
つまり「どれだけ入っているか」の側には数字があり、「どこまでなら大丈夫か」の側に数字がない状態です。
この形は、他の物質と比べるとはっきりします。カドミウムには耐容週間摂取量があり、日本人の摂取量も推定されていて、対比で35%と出ています。PFASには日本のTDIが1つあります。マイクロプラスチックには、どちらもありません。
BPAは、その中間にいます。入口の側だけ数字がある。
公的に示されている行動は、1つだけ
消費者庁のQ&Aは、妊婦に対してこう書いています。
偏った食事を避け、毎食缶詰を中心とするような食生活にならないよう、いろいろな食品をバランスよく摂るように心がけることが大切1
哺乳瓶については、「ポリカーボネート製のほ乳びんを使用することが心配ならば、他にも多くの材質のものが販売されていて、代替えが可能」としています1。
公的に書かれているのは、ここまでです。缶をやめるようにも、特定の製品を選ぶようにも書かれていません。
そして、これは入口の一覧の中で、いちばん「閉じやすい」側に入ります。缶飲料や缶詰の頻度は、思い出すのではなく、この1週間の本数として数えられます。数えたうえで、毎食の中心になっていなければ、公的に示されている条件は満たしています。
数字が動いたことが、何を意味するか
EFSAが2万分の1にしたことを、「危険だと分かった」と読むこともできます。逆にBfRやCOTの立場に立てば、「その引き下げには同意できない」となります。
どちらが正しいかは、ここでは決められません。決められないことを決めたふりをしないほうが、次に情報が出たときに動けます。
いま起きているのは、評価の途中で、機関ごとに結論が分かれている状態です。数字の桁が動くとき、動いているのは物質の性質ではなく、どの影響を出発点に置くかという判断のほうでした。
そして日本は、その判断をまだしていません。再開に向けて資料を集めている——それが2026年3月時点の現在地です2。
参考文献・参考資料
- 消費者庁「ビスフェノールAについてのQ&A」 https://www.caa.go.jp/policies/policy/standards_evaluation/appliance/bisphenol_a/
- 内閣府食品安全委員会「令和7年度 食品安全確保総合調査 ビスフェノールAに係る国際機関等の評価及び科学的知見の情報収集並びに整理 調査報告書」令和8年3月(表4-2「国際機関等のBPA評価書におけるエンドポイントとHBGV等」) https://www.fsc.go.jp/fsciis/
本記事は公的機関の資料の整理であり、個別の診断・治療に代わるものではありません。特定の製品・容器の安全性や危険性を示すものでも、使用を勧めるものでも、中止を勧めるものでもありません。ビスフェノールAの健康影響評価は日本で再開に向けた段階にあり、記載の内容は今後変わる可能性があります。妊娠中の方、乳幼児の食事については、個別の指示が優先されます。
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